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本頁は1015年から1019年にかけてのルーシ(キエフ大公国)における内戦をまとめたものである。この内戦は、1015年にキエフ大公ウラジーミル1世が死亡し、その息子であるスヴャトポルクとヤロスラフの間における後継者争いである。 ==前史== 1013年、トゥーロフ公であったスヴャトポルクは、父ウラジーミルに対する、義父のポーランド王ボレスワフ1世の陰謀に加担するが露見し、キエフに幽閉された。また、翌年の1014年には、ノヴゴロド公位にあったヤロスラフが、ノヴゴロドからキエフへ贈るダーニ(貢税)の支払いを拒否すると、エイムンド(ru)、ラグナルの2人を長とするヴァリャーグ部隊を雇って交戦の構えを見せた。これに対し、ウラジーミルは、大規模な懲罰軍を送り込もうとしたが、1015年に死亡した。 ウラジーミルが死んだ後、ウラジーミルの子のうちの1人であるボリスは、スヴャトポルクの放った刺客によって殺害され(ヤロスラフの手によるという説もある)、同じくウラジーミルの子であるグレプ(ru)もまた殺害された。ウラジーミルの子のスヴャトスラフ(ru)はチェコへ亡命したが、やはり殺害された。スヴャトポルクはキエフを押さえ、父ウラジーミルの有したキエフ大公位を得た。ここに、主だった兄弟たちは排除され、キエフのスヴャトポルクと、ノヴゴロドのヤロスラフの対立状態が生じることになった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ルーシ内戦 (1015年 - 1019年)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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